平成24年度 応募者の想い

H24年度 応募者の思い

今年も支援する高校生が10名決定しました。
応募の際に頂いた作文を許可を得て公開します。

作文には「どうして進学したいのか?進学先で習得する知識・技術を被災地復興のために如何にして発揮するのか?」について書いていただきました。

被災地の高校生が今思っていることを皆様に知っていただければ幸いです。
 

※一部を抜粋し、掲載しております。

(1)陸前高田市の高校生Aさん

 三月十一日、いつも通り平和な朝がやってきた。しかし、起きてはならない事が起こってしまったのである。それは、部活中だった。強い地震の後、陸前高田市をのみ込む大きな黒い壁が襲ってきたのである。夢だったのではないかと疑ってしまう。

 三月十一日、午後二時四十六分、「東日本大震災」と名付けられたこの信じられない出来事によって私の生活は一変した。電気も水もない生活が始まったのである。まるで昔にタイムスリップしたかのようで現実を受け止められずにいた。家も無くした。悔しい、悲しいという感情は全く無く、涙も出なかった。このような生活を乗り越えられたのも、私に生きる気力をくれたのも、奇跡的に全員無事であった家族という存在のおかげである。こんなにも家族のすばらしさを感じたのは初めてである。生きていることだけで満足であり、それ以上の欲は何もなかった。生きているのが一番の幸せだった。

 こんな中、一番思い続けていたのが野球の事である。甲子園を目指し、一生懸命やってきた野球を神様にとりあげられた気がしてならなかった。家、野球道具、何もなくなった。野球をする余裕は少しもなかったが、それでも心のどこかに諦められない自分がいた。そんな自分を救ってくれたのが全国の皆さんからの温かい支援だった。野球ができるという感情が沸き、震災後初めて希望が見えた。そして、ずっと会えていなかった野球部員の仲間とも再会することができた。仲間と震災後初めて野球をした日を今でも覚えている。苦しかった事を思い出し、私は今、野球をしている。それだけで感動した。支援してくださった方々には、感謝という言葉では、おさまりきれない思いで一杯である。そして今度は、私が恩返しする番だと思っている。私一人の力には限界があるであろう。だからせめて、困っている人がいたならば助けていきたい思っている。これが、精一杯の恩返しだと思う。

 震災から時間がたち生活も落ち着いてきた。私は外で元気に遊ぶ子供達が減った事に気づいた。その原因は仮設住宅である。学校のグランド、公園や広場には全て仮設住宅が建てられたのである。子供達が遊ぶ所は自然と家の中になってしまっている。子供達が成長していく過程で、遊ぶ事やスポーツをする事は必要不可欠である。子供達にとって暮らしやすい町作り被災地には必要だと考えている。私の進学する理由はそこにある。大学に進学し、よりよい環境でスポーツを学び子供達にスポーツや体を動かす楽しさを伝えたいと考えている。

 また、野球が私に様々な事を教えてくれました。今度は、私が野球を通じて子供達に技術はもちろん、人間として大切な所を伝えたいと考えています。地元の復興、これが私の最大の目標である。そこで私は、地元の学校の体育の教員になりたいと考えている。子供達に体を動かすすばらしさを伝える事もでき、野球も教える事ができる。大学進学し、地元の復興に貢献できる人間になるために学習したいと考える。これからの被災地を支えていくのは私達なのである。私達が復興させるという強い思いがある。そして、次世代の子供達に伝えていく。これが、私達生き残った者がしていく義務だと考えている。私にとっての故郷は形としてはないのかもしれないが、子供達には故郷を作ってあげたい。安心して帰ってこれる場所を作ってあげたい。「地元の復興を手伝いたい」という子供達をスポーツを野球を通して伝えていきたいと強く思っている。進学にあたって両親に負担をかけてしまうのも現実的な問題である。進学して良いと言ってくれた両親に感謝し、進学を希望している。次世代に伝えていくためにもまず私が努力し、苦しい状況を乗り越えなければならない。将来、陸前高田市が一日でも早く復興できるよう、子供達の元気な姿を取り戻せるよう日々努力していくのである。そして、震災で亡くなってしまった方々の分まで力強く、たくましく生きていく。今、私が何げなく生きている今日は、もっと生きたかった誰かの明日かもしれないから。
 

(2)陸前高田市の高校生Bさん

 私は、大学の看護学部に進学して学んでみたいことが二つある。

 第一に「緩和ケア」である。緩和ケアとは、末期的症状となり、治癒の見込みがない患者に、積極的な治療を行うのでなく、痛みや精神的苦痛を和らげ、最期をその人らしく迎えるために施す治療である。私の心境に大きな変化を与えたのが東日本大震災であった。地元の陸前高田市は震災で多くの方が亡くなり、私の父も亡くなった。父を亡くした精神的ダメージは大きく、誰かが亡くなったという話を聞いてもショックをうけなくなった。実際、震災後に祖母が亡くなった時も平然としていた。私は死を軽く感じるようになったのかと怖くもなった。しかし、誰しも死というものをむかえるということを私が実感したのだと気付いた。死が万人に訪れるとしても、その死を少しでも安らかなものにしたいと考えるようになった。看護師という仕事は患者の死と向き合い、死に慣れることは必要なことかもしれない。しかし、慣れすぎてはいけないと考える。自分にとって身近な存在であった父の死が、他の多くの死よりも大きかったように、亡くなった患者の家族にとってはその「死」が大きいはずである。私は患者一人一人の「死」を大切に迎えるために最善を尽くす看護師になりたい。そのためにも、残された時間の少ない患者とその家族に、どのように話しかけて接するべきであるかを学びたい。たとえば、緩和ケアには在宅緩和ケアというものがあると知った。残された時間が短いと分かっていれば、患者も家族も住みなれた自宅で最期を迎えたいと考える場合が多いと思う。自宅で緩和ケアを受けさせることも本人の意志を尊重すると考えると一つの緩和ケアだと思う。しかし、自宅でいつ体調が急変してもおかしくない患者を看護するということは、家族にとって大変な労働になる。緩和ケアには、患者だけでなく、家族のケアも含まれている。そのため、家族の精神的ケアも大切にしたいと考えている。残された時間が短いと分かっている患者に、身体的な苦痛だけでなく精神的な苦痛を和らげるために看護師として何ができるのか学びたい。そして患者を支える家族の負担をなくすために最善を尽くしたい。

 第二に学びたいことは「助産」である。陸前高田市では産科の病院がない。したがって、妊娠、出産については隣の大船渡市の病院に行かなければならない。車で時速約60㎞のスピードで30分以上かけて移動することは、母体にとって負担ではないかと考える。私は陸前高田市が安心して出産できる町になってほしい。もしも陸前高田市に産婦人科の病院・病棟がない状態が続くのならば、助産院を開き地域活動を活発にしたいと考えている。現代は少子化、核家族化で妊婦とかかわる機会も少ないため、妊娠についての知識も少なく、出産に不安を感じる人も多いはずである。産婦人科の医師不足である以上、妊婦にとって助産師は一番の頼りになり、常に相談できるような、距離の近い存在でなければならないはずである。安産になるよう症状によって妊婦がすべきこと、時期によってかわる体調に合わせてどのような生活習慣が望ましいか、妊婦も家族も一緒に学ぶ活動を展開したい。そして、生命の誕生を支える存在になりたいと考えている。また、日本では、望まれない妊娠をして中絶する例が増えていると聞く。これは若い世代が、性行為や避妊についての知識が中途半端であることが背景にあるはずである。助産院を開いたならば、妊娠について若い世代に考えさせる機会を作りたいと考えている。望まない妊娠や安易な中絶をなくし、生命を大切にする社会を作りたい。しかし、自分一人で地元に帰ってきてこのような活動をしようとしても活動を充実させることは難しい。助産師は異常のあるお産には対応できず限界があるため、地域内にある中核病院と連携を取る必要がある。性教育については保健師の協力も必要であるし、学校で教えるならば学校関係者との結びつきも必要である。そのためには、大学で地域医療について学ぶとともに、看護師として県内の病院で経験を積みたいと考えている。それぞれの実態を知り地域で連携を取れるような看護師、助産師になりたいと考えている。

 「緩和ケア」と「助産」は対極に位置するテーマかもしれない。しかし、どちらも「生きる」ことをどうとらえるかということである。「生きる」ということに向き合う看護の勉強をしたいと考え、大学進学を志望する。


 

(3)大船渡市の高校生Cさん

 私の夢は将来介護福祉士になり、福祉機関を利用する高齢者、あるいは身体や精神の障がいにより日常生活に支障がある方の一人ひとりが心から笑顔になるように支援することだ。そのために、進学して福祉の実践に必要とされる専門的な知識や技術を身につけたいと考えている。

 私が福祉に興味を持つようになったのは、幼稚園や小学校の行事で地域の老人ホームを訪問した経験からだ。高齢者の方と共に食事をし、会話やレクリエーションをするなど、交流を重ねることでだんだんと職業として意識するようになった。さらに、中学校の職場体験で再び老人ホームを訪問し、初めて介護の仕事を体験した。実際の仕事は想像していたよりもはるかに大変なことばかりだった。普段は人と会話することが好きな自分が、その時はなかなか会話ができず、うまくコミュニケーションをとることができないことに、もどかしさも感じた。しかしこの時に、人とうまくコミュニケーションをとるにはどうしたらよいかを考え、同時に、人と人との繋がりの強さや感謝される喜びを改めて感じた。私はこの職場体験で介護福祉士になりたいという想いをより一層強くした。

 現在の日本は超高齢化が進み、介護にかかわらず福祉全体の需要が高まっている。その一方で、介護は肉体的にも精神的にも大変な仕事だと言われ、敬遠される状況にある。しかし、私はきつい仕事だからこそ相手に心から笑顔になってもらえるように介護することに、やりがいや魅力を感じられるのだと考える。

 一昨年の津波の被害で大好きだった大船渡の町は以前とはすっかり姿を変えた。街灯が減り、特定の区画には灯りどころか建物すらなく、夕刻の大船渡は今までよりも寂しさに包まれているようにみえる。住み慣れた地を離れ、今まで築き上げてきた気が置けないコミュニティも崩れ、仮設住宅で孤独に暮らすお年寄りも多い。心に、町に寂しさを抱えながらも、私達も、そしてお年寄り達にも明るい笑顔を取り戻さなければならない。私の故郷、大船渡という町をこれまで作ってくれたのは地域のお年寄りだ。今まで大船渡を守ってきてくれた地域のお年寄りに対する感謝の気持ちには少しも変わりはない。だからこそ今度は私が介護福祉士になって地域のお年寄りへのサポートをする番なのだ。

 そこで私は少人数体制で学べ、実習を通してさらに発展的な内容を身につけられる公立大学社会福祉学部福祉臨床学科への進学を希望する。

 4年間の大学生活では、第一に他者を援助するにはどのようにすべきかについて考え、行動したい。第二に、演習・実習を通して生活支援技術を高めるだけではなく、生活支援を必要としている人の気持ちを体験し理解できるようになりたい。第三に、生活支援者一人ひとりの要望にできるだけ応えられるように、臨床福祉実践における一連の専門的な知識や技術を正確に習得したい。さらに、大学での学習や生活を通して、人として自分自身が大きく成長しなければならないと思っている。福祉を学び、福祉に携わるうえで、自らの理解の深まりや人間的な大きさが必要であると考えているからだ。

 もう一つの私の夢は、最終的に大船渡に戻り、大船渡の福祉機関で働くことだ。そしてそこで出会う方達の、明るい笑顔を取り戻すために全力を尽くしたい。それらが小さな社会貢献となり、さらにみんなの笑顔が大船渡の復興の大きな力へと発展していくことを信じている。

 これから学び、働いていく過程において、時には辛いことや逃げ出したくなる時もあるかもしれない。しかし、一度自分が決断した道なのだから、諦めるつもりはない。大学で習得する専門的な知識や技術を武器に、自信を持つことで最後までやり遂げることができると信じている。

(4)釜石市の高校生Dさん

私は将来、看護師になりたいと思っている。人を助ける、人の命を守る仕事につきたいからだ。

 私の家庭は母子家庭である。母が女手一つで兄、妹、私の三人を育てている。兄は今年、やっと千葉県に就職した。母は、苦労して育てた兄を手放したくない気持ちが強かったが、兄の希望を大事にしたいと考え、陰で涙を流しながら兄を送り出した。妹はまだ高校一年生である。私と妹は、毎日自転車で高校に通っている。妹は空手部に入り、初めての競技に挑戦している。足にあざができても足の裏の皮がむけても、一切泣き言を言わず毎日夜遅くまで頑張っている。そんな妹を見て、ソフトテニス部を引退した私は心の中で応援している。私は中学時代からソフトテニス部に所属していた。毎日帰りは遅く土日も丸一日活動があり、楽しいことより辛いことの方が多かった。しかし、仲間と励まし合い競い合い六年間ソフトテニスを続けることができた。私はこのきつい部活動を通して、肉体的にも精神的にも大きく成長することができた。

 私が看護師になる夢を抱いたのは、中学生の時だった。母が「手に職を持つならば看護師だな」とつぶやいたことがきっかけだった。そんな時、母が入院した出来事を思い出した。母は私たち三人の子供を育てる為、介護の仕事を頑張り過ぎて疲れ果てていた。急性肺炎という診断であった。私たち三人兄弟にとって、初めての母不在の生活が始まった。その頃私はまだ小学二年生であり、母のいない寂しさと戸惑いで泣いてばかりいた。しかも兄弟げんかばかりの私たち兄弟であったが、少しずつ協力して生活するようになった。さらに中学二年生の時祖父が倒れた。私と兄でどうにか救急車を呼んだ。血を大量に吐いて苦しむ祖父に私たちは声をかけることしかできなかった。病院で手当てを受けている祖父の姿は、今でも頭の中から消えることはない。その時の看護師さん方の対応に、私は心の底から感動した。点滴やその他の処置が素早かった事はもちろん、いかに患者の気持ちをうまく受けとめ笑顔にできるか、その点もよくわきまえられていた祖父は看護師さんに心を開き、色々な話をしていた。看護師には心のケアも必要なのだと考えさせられた。白衣の天使とはよく耳にしていたが、まさに私はその実際の姿を見たような気がした。

 普段病院に通う時、私たちは当然体調が悪く、医師に病状を説明することすらおっくうになっている。だからこそ、看護師さんの明るい笑顔や優しい言葉によって具合の悪さを軽減する。看護師というのはとても大切な存在だと思う。また素早い処置、病状についての的確な判断は患者に安心感を抱かせる。

 私が目指しているのは、誰からも信頼されるような看護師になることだ。みんなに気軽に声をかけてもらえる、そしてこちらもみんなに笑顔で声を掛けられる、そんな存在でありたい。そして病状についてはもちろん、その他心の悩みなどの相談事にものって患者さんの心をサポートできるような看護師になりたい。

 平成二十三年三月十一日、東日本大震災により多くの方々の命が犠牲となった。私の家族は無事だったが、親戚の方が亡くなってしまった。人が一人亡くなるという現実は、言葉で簡単に言い表せないほどの悲しみや辛さを含む。そしていつまでたっても消える事はない。また、忘れてはいけない事だとも思っている。残された人も精神的に深い傷を負った。そんな人々が看護師のサポートを受けている姿を、避難所や病院で私はよく見かけた。多くの人が話を聞いてもらいたくて看護師を頼っていた。

 私の家は無事だった。しかし家までの道路や外灯が破壊され、帰るに帰れない状態となった。暫くは避難所で生活し、震災から四か月後やっと仮設住宅に入ることが決まった。避難所では自由な行動ができず、入浴や就寝の時間も決められていてストレスがたまる一方だった。仮設住宅に入ってからも隣の住人の迷惑にならないよう、静かに生活している。しかし、自分の時間を持てるようになったことには感謝している。

 看護師になりたいという中学時代からの夢は、最初はささやかなものであった。そして東日本大震災という思いがけない辛い経験もした。だからこそ今では看護師になるという私の夢は単なる夢にとどまらず、大きく強い意志へと変わった。必ず立派な看護師になり、人の命を守ろうと思う。たとえ目の前の患者さんが最期の時を迎えることになったとしても、命が最期の灯りをたやすまで一生懸命看病をしたいと思う。私ができること、やらなければならないことはこの一言に尽きると思っている。
 

(5)宮古市の高校生Fさん

 私は「進学すれば就職に有利だ」という単純な考えだけで進学校に入学しました。しかし、震災で被害に遭い、家計を考えると進学ではなく就職を選択すべきだとも考えるようになりました。そんな中、進学を勧めてきたのは母でした。とにかく早く就職すべきだと考える私とは逆で、大学に入って多くの資格をとり、確実に就職し、様々な場面で活躍するべきだと母は私に言いました。考え方が変わり、進学を決意しました。

 もちろん、進学するのは母に勧められたからだけでなく、夢があるからです。震災で多くのものを失いました。部活動で大きな怪我をしてしまい、大好きなバスケットすらも自分から消えかけました。ついにくじけそうになったときに立ち直らせてくれたのが「リハビリデーション」です。最初私は、リハビリをつらいものだとばかり思っていました。しかし、担当者との会話は楽しく、私の気持ちを理解した上で接してくれるので自然とリハビリにもやりがいを感じました。気がつくと、リハビリをしたいと思うようになっていました。この経験から、リハビリに携わる仕事をしたいと考えるようになりました。しかし、私は「作業療法士」と「理学療法士」の違いがよく分かりませんでした。そこで、地元にある病院の職場見学会に参加しました。それぞれの行うリハビリを間近で見ることができました。そして、お手玉をつかむ、豆をスプーンで別の器に移すなどといった、機械に頼らない作業療法士の治療法に魅力を感じました。機能回復を目指す患者に対しても無理をさせず、自然とその作業を習得させる場面にとても感動しました。一見ただの世話をしており、「これのどこがリハビリなのか」と思う部分もありました。しかし、それは患者との会話を通じて趣味や日常生活を聞きだすことでその人のリハビリに対する意欲をかきたてているようにも見えました。カウンセリングによりその人の精神や心理まで考えて行う治療法に、私はコミュニケーションの大切さを実感しました。このことは、これからの医療福祉に欠くことのできないものであると考え、作業療法士になる決心をしました。

 私が目指しているのは医療福祉への道ですが、少子高齢化が深刻になっていく中、今後の医療ではその他の専門職との連携が必要になるはずです。そこで、私は実際の医療現場で求められる技術を学生のうちから身につけるために、大学進学を希望します。専門学校ではなく、大学を志望する理由は、高い国家試験合格率にあります。大学では四年間かけて作業療法士としての知識を学べますが、専門学校よりも一年長く学ぶという事も、合格率に影響しているのではないかと考えました。最先端の医療を学べることに期待をしています。また、時間が長い分、作業療法士としての知識のみではなく、社会人として必要な知識や振る舞いを学ぶ機会も多くあると思いました。

 私は、震災で家、家族を失いましたが、それがきっかけで多くのボランティア団体の方々に出会い、周りの支えを感じました。震災の時に支えになっていた大好きなバスケットが消えかけましたが、それが「リハビリテーション」を知るきっかけになりました。私は多くのものを失いましたが、失った分、多くの人と出会い、多くのことを学びました。人との関わりの中で得るものは大きいと思います。大学でも講義や授業だけでなく、人と接し、学ぶことで成長していきたいです。

 大学に合格し、国家試験に合格し、作業療法士になることができたなら、最終的には地元に帰ってきたいというのが私の望みです。私は現在、仮設住宅の集会所に作業療法士がボランティアに来ています。内容はマッサージやカウンセリングです。狭く、不便な仮設住宅で生活する人々にとっては必要なものです。マッサージのみなら理学療法士のもできますが、被災者ならではの悩みを専門的にカウンセリングできるのは作業療法士に限ると思います。

 仮設集会所に来る作業療法士のマッサージをして、「気持ちよかった」と嬉しそうに帰ってくる母を見ることが私は好きです。そのため、私は被災地で多くの人を専門的に、さらに同じ被災者としても声をかけ、カウンセリングできる作業療法士になりたいです。私が作業療法士になることで母に気軽にマッサージ、ケアをしてあげたいです。

 応援してくれる母がいて、心からなりたいと思える夢があり、戻ってきたい地元があり、力になりたい人がいる。これが私がどうしても進学したいという理由です。
 

(6)宮古市の高校生Gさん

 私が北日本ヘア・スタイリストカレッジに進学したい理由は、ニュースやホームページを見ていて、シビルウェディングや盛岡さんさの髪結いのボランティアなどで、先輩方の活躍する姿を見たり、学校見学でのヘアショーを見て、とても素敵だし、この学校で勉強したいと思い希望しました。

 私は以前から美容に関することが好きで、小さいころから美容師という職業に憧れていました。私の親戚には美容師が多く、その人たちの働く姿を見る機会が多くありました。いつしか、その姿に憧れを抱くようになっていました。

 幼いころは母に散髪してもらっていて、散髪する母の姿を見ているうちに、私も美容師になりたいと思う気持ちがますます強くなりました。

 希望校に合格したら、美容師国家資格を得るために実技や学科を一生懸命学びながら、選択コースなどで各種の資格を取得していきたいと思っています。東日本初のサロン実習も楽しみにしています。

 国家試験に合格し、卒業したら、サロンに就職し、実務経験を積んで管理美容師の資格を取得したいと思っています、そして、地元の山田に戻り、自分のお店を開きたいと思っています。

 将来、私が目指すお店は、老若男女問わず幅広い年齢の方々に来ていただけるようなお店です。1人ひとり趣向も異なりますが、お客様1人ひとりにしっかり向き合い、1人でも多くのお客様に喜んでもらい、「ありがとう」と感謝してもらえるようなお店にしたいと思っています。 

 自分とは違うお客様1人ひとりの個性を引き出し、綺麗になってもらいたいです。そのために確かな技術を身につけ、お客様とのコミュニケーションを大事にしたいです。

 美容師になるには大変なことも多いと思いますが、それ以上に楽しいことやうれしいことが待っているやりがいのある職業だと思っています。そしてお客様からたくさんのパワーをいただける素敵な職業だと思います。なりたい自分を目指し、幼いころからお世話になった地域の人に恩返しできるように日々頑張っていきたいと思います。
 

(7)陸前高田市の高校生Hさん

 私は盛岡公務員法律専門学校に進学することを希望しています。

 将来は消防士になって社会、そして地元の大船渡や陸前高田の町の復興に、若い力を発揮したいと思っています。少しでも復興の為に力になりたいですし、消防での仕事も一生懸命に働き消火活動、防災業務などの為に訓練をして、地域を守っていけるような消防士になりたいです。消防職をまっとうして社会に貢献していきたいと考えています。

 消防士をめざすきっかけになったのは、昨年の東日本大震災でした。もともと消防士になりたいと思う気持ちは少しはあったのですが、はっきり決められずにいました。そんな中で三月十一日に発生した東日本大震災に巻き込まれました。その時、野球の練習中だった私は、グラウンドが高台にあり、ぞくぞくと避難してくる人がいる中で、陸前高田の町を見ていました。中には町の人たちに避難を呼びかける消防士、消防団の姿がありました。地震発生から間もなくして、あんなに美しかった高田松原の海が大きな大きな黒い津波となって高田の町を襲いました。そこにいた全員が津波に怯え、唖然とした顔で、町を見つめていました。その場で、私の目に止まったものがありました。それは津波に飲み込まれる消防車の姿でした。それまで騒がしかった町が津波の到着とともに一瞬のうちに静まり返りました。その時の事を今でも鮮明に覚えています。あの時、陸前高田の町で、人を助けるために必死に避難を呼びかけ続けていた消防士、消防団の人たちの多くは命を失いました。高台で見ていて、胸が張り裂けそうでした。消防士の方々にも避難してほしかったです。この震災をきっかけに、自分は消防士になり地元を守りたいと強く思うようになりました。もちろん、簡単になれることではないのは自分でもよく理解しています。しかし私は、人の命を救える、そして地元の人々から、愛される、頼られるような消防士になりたいと思っています。だから、必ず消防士になって、地元の復興の力になっていく覚悟です。

 私は体力に自信があります。小学三年生から野球を始め、陸上大会やドッジボール大会、駅伝練習など、さまざまなスポーツに取り組んできました。特に、高校野球を三年間続け、一年の秋季大会から試合に出場し、二年生からレギュラーとして試合に出続けました。ときには挫折する時もありましたが、仲間に監督、コーチの方々の支えもあって、三年間、仲間と共に切磋琢磨して続けてきました。部員総勢八十人を超える大人数の中で、八十人の代表として試合に出せてもらいました。結果はいいものではありませんでしたが、この八十四人と共に練習できた事、また、出会えた事、一緒に泣いたこと笑いあったことなど、たくさんの思い出があります。自主練習では毎日のように夜11時まで練習しました。とても辛かったですが、目標に向かって邁進することができました。努力し続ける力も身についたと思います。部員が多かったので、多くの人とコミュニケーションをとる必要があり、どんな人とも誠実に話をすることができるようになりました。消防士にとっても、仲間とのコミュニケーションは必ずとらなければいけないと思うので、コミュニケーション能力というのは大切だと思います。また、私の明るい性格も、今後の人生の中でも大きく役立つと思うので、生かしていきたいです。消防士にとって体力やコミュニケーション能力など必要な力だと思いますが、自分のこの能力を、ぜひ、消防士となって力を発揮したいです。

 震災の次の日、家に帰る事ができました。家族に会うことができて安心しました。家もギリギリ助かりました。しかし、父の仕事場が流され、失業しました。震災後の生活は今までとは大きく異なったものでした。電気や水は使えないのはもちろん、車のガソリンもなかなか手に入らないなど、生活するのが大変でした。そんな中で、父の失業は大きく影響しました。父は仕事を失ってから仕事を探し続けました。なかなか見つからなかったのですが、必死になって探しているのが私にも分かりました。正社員ではないが手伝いやバイトといった形で働いてくれていました。そんな苦しい時に親戚などがサポートしてくれた時は、とても助かりました。親戚や近所の人たち、繋がりのある人たちの親切さやありがたさを痛感し、大切にしていきたいと強く思いました。さまざまな事に感謝したいと思います。その後も経済的にも苦しい時は続きましたが、家族全員で協力して、助け合って生活しています。

 以上のことから私は、地域の復興のためそして地元を活気づけて、消防士として支えていきたいです。経済的に苦しい状況にあるので、ぜひ若草会のご支援をお願いし、自分の夢をかなえたいと考え、希望いたしました。
 

(8)大船渡市の高校生Iさん

 私は東北大学理学部物理学科で学びたいと考えている。東北大学は、日本でもトップレベルの物理の研究を行っている。そのような大学において、一年次から物理学に関する幅広い知識に触れ、余すところなく積極的に吸収し身につけたい。学年を追うごとに専門性を高め、より高い知識と研究に触れたい。そして、将来は科学捜査研究所で、犯罪捜査の研究を通して、社会の役に立ちたいと考えている。

 私が科学捜査研究所で働きたいと考えたきっかけは、テレビでえん罪事件の報道を目にしたことだ。私はえん罪によって何年も無実の罪で捕まり人生を棒に振る人がいること、真犯人が逮捕されないまま、何年も未解決のままになる事件があること、年月を重ねても悲しみから抜け出すことのできない遺族がいることを知った。こうした現実を知り、私はえん罪をなくしたいと思った。

 また、一昨年の東日本大震災では、常識では考えられないような犯罪が起きた。被災地に多くの泥棒が現れ、皆が避難した後の家屋から金品を盗み、遺体の宝飾品を強奪するという事件である。震災後は原子力発電所の事故をはじめ、大きな事件が報道される中で、このような強奪事件があったことはあまり報道されていない。私も知人からこの事実を聞いて初めて知った。混乱に紛れて他人の金品を奪おうという人がいたこと、事件を起こしたのは生活に困り果てた被災者ではなく、遠路はるばるやってきた窃盗グループであったことに大きなショックを受けた。人にはこうした醜い一面があることもまた事実だが、私はことことに強い憤りを感じた。この人の醜い一面という点は、真犯人が自分の罪を人にかぶせたままで平気でいるという、えん罪事件とも共通する問題であると感じている。

 そこで、犯罪捜査に携わることで、混乱に乗じて行われる犯罪の早期解決に尽力し、被害者の不安を取り除く助けになりたいと考えている。
えん罪は、ずさんな証拠管理や思い込みなどの人為的なミスや、一つのミスを隠そうという心の動きが起こすこともあると聞く。人の行うことに完全なことはないと思うが、そのために人生を台無しにされる人がいては行けないと私は思う。このような問題が未だに解決されていない原因として、犯罪捜査が未発達であることがあげられる。犯罪捜査は長い歴史の中で進歩してはきたが、人為的なミスが起きる余地があることなど未だに完全ではない。

 また、被災地などの一般的な状況からかけ離れた状況下で捜査活動が十分に行われていない点も問題である。このことに関しては、十分な人員を派遣し、マニュアルを作成することで解決できるのではないかと考える。さらに、被災地で起きている犯罪の現状をきちんと報道することも大切だ。そして、何よりも捜査技術を進歩させることが必要である。より早く、正確に、真犯人を見つけ出すことができる技術が、こうした犯罪やえん罪をなくすために、もっとも効果的なことだと私は考える。

 交通事故、ひき逃げ、放火、火災などの事件では、物理工学分野の鑑定により再現実験を行うことで真相に近づくことができる。サイバー犯罪に使用されたコンピュータの解析も物理工学鑑定の仕事である。

 そこで私は、得意とする物理に関して高くて深い知識が必要であると考え、その知識を身につけるため、大学でのレベル高い講義を受け、研究に取り組み、目標を達成したい。

 また、東北大学も今回の地震で大きな被害を受けた大学の一つであり、地域復興を目指して学ぶのに、これ以上の大学はない。東北大学で学んだことは、東北の被災地の復興に必ず役立つと確信している。

 私は科学捜査研究所で、物理工学分野での鑑定に携わり、捜査技術の進歩に貢献することで、被災地の安全を支える助けになりたいと考えている。またそれが、被災地の復興を担うことにもなるのだと確信している。
 

(9)陸前高田市の高校生Jさん

 私は盛岡公務員法律専門学校に進学を希望しています。私がこの学校を志望した理由は公務員合格のパーセントがとても高く、少しでも早く社会人として働きたいと考えている私には最適の学校と思ったからです。また、勉強する設備も整っていて先生方の教えもとても分かりやすいとお聞きしたのでこの学校への進学を希望しました。将来は、地元の町役場へ入って私の町をもっともっと良くしていきたいと考えています。

 私がなぜ公務員として住田町の役場に入りたいかというと、一つは東日本大震災を経験したからです。陸前高田市と住田町は隣町にあって住田町は震災直後に最もすばやく動き出していたのを私は見ました。消防でもなく警察でもなく、町を良くしようと考えている人たちが一番はやく、また一生懸命になって働いていたのを覚えています。私も自分たちの町のためだけではなく、世のため人のために働きたいと望んでいます。また、私が夜遅くに散歩に出かけた時も、毎日のように残って仕事をしていてその仕事ぶりを見て私もここに入りたいと考えるようになりました。そして町役場の人たちはどの方も挨拶が明るくとても礼儀正しいと思いました。町役場の人たちはしっかりと、町のこれからのことを考えていて、素晴らしいと思いました。また、当然のことながら上下関係がしっかりしていて、町の行事などでは積極的に町民と解り合っていて一生懸命に活動していたのにも目をひかれました。私たちの町は、お年寄りが多くコミュニケーションが取りにくいと思われがちですが、町役場の人たちはとても親切で私も見習っていきたいと思っています。

 私も、町役場の人たちのような親切で優しく、誰からも話しかけてもらえるような町職員になりたいです。将来は住田町をもっと良い街にして、「林業のまち」の住田としてさらに発展させていきたいです。

 私は高校時代野球部に所属しており、部活動でたくさんのことを教わりました。野球部では団体行動の大切さと、時間を守るということを簡単なように思えるかもしれませんが、完璧に学びました。三年間プレーして、これといって目立った結果は残せませんでしたが結果以上に人間的に大きく成長できたと思います。私が最も印象に残っている試合は、私が一番最初に出場した大会です。結果は1対13で大敗でした。私はその試合で守備では何度もエラーをし、打っては全打席三振と全く良いところがありませんでした。私はその試合は絶対に一生忘れることはないと思います。その試合から私は誰にも負けたくないと、人一倍の練習をしてきました。その結果、大会では一度も背番号一桁を譲ったことはありませんでしたし、練習試合で一度もBチームへ落ちたことはありません。また、現役の時は84人の部員の中で誰にも負けたくないくらい一番練習していた自信があります。朝から夜は一番遅くまで、と負けた時から決めていたのでこの自分ルールを一度も破ったことはありません。そして、最後の大会は3対10のコールド負けでしたが、自分たちのベストの力は出すことができたと思います。自分たちが三年間やってきた野球に悔いはありません。最高の仲間たちとプレーできたことを、本当に誇りに思えます。最後に、いつも夜遅くまで練習して十一時くらいに眠いはずなのに迎えに来てくれた親に心から感謝したいです。

 そして、私がなぜ早く親に恩返ししたいかというと、母の仕事の給料が減ったので私が早く社会人になって給料をもらいたいと考えています。私には、妹と弟の二人がいます。私は長男なので、これからの弟妹のことを考えると、私はやはり早く給料をもらわなければならないと考えています。父の給料だけではさすがにどうにもならないと思うし、母ももらっているといっても以前のようにはもらっていません。やはり、わたしも働かなければならないので、親にはあと二年たくさん苦労をかけるかもしれないですが、二年後は必ず親孝行をしたいと考えています。

 小学校三年生から始めてきた野球ですがおそらく今までで何十万円と、私にお金をかけてきてもらったと思っています。私は妹、弟と長男でもあるし、私が頼られる存在にならなければならないと考えています。本当に親にはあと二年お願いします、と伝えたいです。

 以上のことから、私は将来を見据えて盛岡公務員法律専門学校への進学を希望しています。この学校は四年生ではなく二年生なので、弟妹が多い長男の私としては早く親孝行したい、とも考えているので、この学校で一生懸命勉強し、夢をかなえたいです。「夢、かなうまで挑戦」この言葉は私の好きな言葉で部活動でも大切にしてきました。この言葉の通りこれからも夢を追い続けていきたいと考えています。必ず実現させたいです。

 経済的に大変な状況にあるので若草会のご支援をどうぞよろしくお願いいたします。
 

(10)陸前高田市の高校生Kさん

 私は、美容系の専門学校に進学したいと考えています。

 最終的なことを言ってしまえば、美容師としての国家試験を合格して免許を持ちたいということです。それにあたり美容系に進学し国家試験にしっかりと望む勉強をしたいのです。たくさんの専門学校を調べました。その中で「行きたい。ここの専門学校で技術を磨きたい。」と強く思う専門学校を見つけました。在学中の生徒の姿も見学させていただきその集中力と熱心さに私は見とれてしまいました。その専門学校で技術を磨き、知識を学びたいと本気で感じました。

 そして、私は美容師になろうと心に決めたのは、東日本大震災がきっかけでした。3月11日震災、津波直後、水も使えず電気も使えない日々が続きました。たくさんの不幸が重なり、人一人一人の笑顔すら消えていく姿が見うけられました。物心がついている私もみんなで助け合って生きることに必死でした。家をなくし、自分の私物など何一つとして残りませんでした。ですが、そんな私達家族を笑顔で一緒に暮らしてくれる親戚の方がいました。暗い顔など一つも見せませんでした。ここで初めて私は「感謝」の本当の意味を知ることが出来ました。月日が経ち仮設住宅に住んでからたくさんの支援をしていただきました。たくさんの大学生が来てお祭りを開催してくれたり、勉強を教えてくれたり、お花を植えて綺麗にしてくれたり。たくさんの笑顔と勇気を与えてくださいました。そして、私が美容師という仕事に憧れたのも笑顔がきっかけでした。被災直後の断水により水の使えない日々が続きました。どうすることのできない肌の手入れや神の手入。そこで立ち上がってくださったのは美容師の免許を持った大人でした。物資でいただいたハサミと櫛を使って一人一人の髪を切ってあげていました。切り終えた一人一人の笑顔はその人ではないかのように美しく、輝いて見えました。そんな美容の技術は、どんな時でも役立つのではないか。そして、笑顔をたくさんたくさん作り上げることが出来るのではないかとその時、すごく夢を見ました。私自身も切ってもらいました。胸まであった髪は、おふろにも入れず油でぬれていました。ですが、そんなことは何も気にせず美容師さんは切ってくださいました。切ってもらった後、私は暗い気持ちがなんだか明るくなったような気持ちになれました。こうやって人は、身にたくさんの感情をにじませながらうれしさを覚えていくんだなと感じるようになり、その嬉しいなどの明るい感情を与えられるような仕事に就きたいと思いました。そこで一番に思いつき、何よりも学びたいと思ったのは、震災後に見てあこがれた美容師でした。私が行きたいと考えている専門学校では一般の方をお招きしてふれ合う場をもうけているそうです。そのような機会を利用し、人とのふれ合い方や、人との接し方、そして何よりも笑顔の増やし方を学びたいです。あの震災から笑顔を作り出すことはそう簡単ではありません。そんな難しいことも自然とやってのける美容師になりたいです。ですが、私がどんなにあこがれ、本気で美容の道へ進みたいと思っていてもお金はかかってしまうものです。「何とかする」という親の言葉に申し訳なくう思うことが多々あります。母親はパートで夜、夜中まで働き、家事までこなしてくれています。父親は、がれきを重機で片付ける仕事を週6単位で働いてくれています。そんな重機の仕事には期間があり、あと約2年で終わってしまいます。震災から1年と半年以上経っていても先の見通しがつかず悩みの日々を送っています。私は少しでも親に負担をかけたくありません。「何とかする」という両親の気持ちの裏には、きっとたくさんの不安があると思うんです。自営業の仕事も少しずつではありますが、再開し始めています。お店を開くにつれて多額の費用がかかることでしょう。ですが、お店を開くことが両親にとっては喜びであり楽しみであるのを子供の目から見てよくわかるんです。そんな親を見て、私は自分のことはすべて自分でやろうと決めました。この若草リボン基金を頂くことが出来ましたら、決して無駄にすることなく、夢実現と復興に向けたいと思います。