平成25年度 応募者の想い

H25年度 応募者の思い

今年も支援する高校生が13名決定しました。
応募の際に頂いた作文を許可を得て公開します。

作文には「どうして進学したいのか?進学先で習得する知識・技術を被災地復興のために如何にして発揮するのか?」について書いていただきました。

被災地の高校生が今思っていることを皆様に知っていただければ幸いです。
 

※一部を抜粋し、掲載しております。

 

山田町の高校生Kさん

 私の現在の将来の夢は、栄養士になることです。私は元々、食べることが大好きで食べ物の栄養素に興味がありました。そのため、前から栄養士という職業に就きたいと考えていました。しかし、ただ食べる事が好きというだけの理由で栄養士になりたいとおもっていたため、それほど強く栄養士になりたいと思っていたわけではありませんでした。ところが、2年前の3月11日に発生した東日本大震災をきっかけにより強く栄養士になりたいと考えるようになりました。震災当時、私は思うように食べ物を口にする事ができず、1日におにぎり1つだけという事も経験しました。震災でまともに食事ができない日々を過ごし、体重も大幅に減少し、そして、体力もおち、以前よりも疲れやすくなってしまいました。その時初めて当たり前に食事が出来ていたことが幸せな事で、食べることの大切さを実感しました。また、思うように食べることができない日々が続き精神的にも、とても苦しかったのを覚えています。そのような日々を経験し、私は食べれることがどれだけ大切なことか思い知らされ、沢山の人を笑顔にできる栄養士になりたいと思いました。そのためには大学へ進学し、専門的な知識を身につける必要があるため私は大学進学を希望します。
 私が進学を希望している大学は県内にあり、地元にもそれほど遠い距離にあるわけではありません。大学で栄養についての専門的な知識を学習しながら地元に時々戻り、地元の人への栄養指導を行いたいと考えています。
 なぜなら、私は現在仮設住宅での暮らしを余儀なくされているのですが、休みの日になると仮設住宅で暮らしている人の健康を気遣って栄養士の方が来て下さる時があります。被災地の人が笑顔で健康であって欲しいという栄養士の方の思いが毎回仮設住宅を訪問して来てくれる姿から大変伝わってきて、私も大学へ進学し、栄養の専門的知識を身につけ、仮設住宅をまわり、地元の人達の健康を考えてアドバイスする作業を行いたいと思ったからです。また、私が今住んでいる町は高齢化が進んでいるので高齢者に向けた料理教室を開きたいです。
 大学では今以上に、地域に貢献できる活動に力をいれていきたいと思っているので、ボランティアサークルやプロジェクト活動に参加して精一杯取り組み、少しでも地元の復興の力になれる活動を行っていきたいと考えています。
 私は震災にあって父をなくし、家をなくし精神的に落ち込んで立ち直ることができないのではないかと思っていました。しかし、家族や同じ非難所だった人達、親戚、そして全国の方の支援のおかげで悲しみを乗り越える事ができました。高校に入ってからは震災を乗り越えるために勇気づけてくれた方、支援してくださった方に少しでも恩返しができるようにボランティア活動に特に力を入れてきました。そして、今年の高校3年の夏休みには3週間、被災した東北3県の高校生100人でアメリカのカリフォルニア州へ行くプログラムへ参加してきました。そのプログラムでは、被災した高校生とアメリカでの生活を共にしてアメリカの文化を学び、そして今後、東北の復興には何が必要かを考え、意見を交換し合ってきました。その中で、私の地元に必要なものとして地元の若い人の力があげられると思いました。今は高齢者が多く、少子化が進んでいるので地元には今、若い人1人1人が地元を復興させたいという気持ちを持って何かしらのアクションをおこしていく事が大切だと思いました。そのため、私は今後、大学に進学したら高校生の時以上に地域に貢献できるよう、努力をしていきたいと思います。大学での授業を一生懸命取り組み、栄養の知識を身につけ、知識を生かした健康指導を行ったり、料理を地域の方々と行ったりするボランティアを主に取り組みたいと思います。
 また、私の大学卒業後の目標は、学校の給食センターに勤めることです。私が給食センターに勤めたいと思った理由は2つあります。まず1つ目は生徒に給食を提供する上で、栄養のバランスがとれた料理を作ってあげたいと思ったので、生徒1人1人の健康を考えたバランスのとれた食事を提供したいです。2つ目に私は震災を経験して食べる事の大切さを改めて実感したので、栄養士という仕事を通じて食べることの大切さを沢山の人に伝えていきたいと思っています。以上の理由から、この奨学金を希望します。

 

陸前高田市の高校生Mさん

  私の将来の夢は社会福祉士になることだ。そのために四年制の大学への進学を目指している。私が」社会福祉士を志したきっかけは、二年前におこった東日本大震災を経験したことと、海外のボランティアに参加したことである。
 東日本大震災の津波により、私の自宅は全壊し、同居していた祖母が犠牲になった。中学三年生だった私は、三月九日に受験を終え、卒業式を間近に控えていた。すべてが破壊され、何もなくなってしまった。中学校は千人を超える避難民の避難所となった。避難所では炊き出しなどたくさんの人が手伝いをしていた。津波でめちゃくちゃになった町では、懸命に遺体の捜索をしている人たちもいた。みんな自分も大変な状況なのに、他人のために働いているのをみて、私も将来は人のために役立つことをしたいと思った。
 私は高校二年の夏に、タイでの海外ボランティアに無料で参加し、十日間ほど滞在した。タイでは現地の学校を訪問し、子どもたちと交流したり、一緒に植樹をしたりした。タイでは今の被災地にとって大切だと思うことを二つみつけた。一つはお互いを思いやる心だ。タイの子どもたちは積極的に笑顔で話しかけてくれて、言葉が通じなくてもジェスチャーなどで必死に伝えようとしてくれた。子どもたちが私たちに優しく接してくれたの、私たちもすぐに打ち解けて話すことができた。二つ目は地域のつながりが重要だということだ。私たちは寺院に宿泊していたので、托鉢を体験することができた。
タイでは仏教が厚く信仰されていて、現地の人たちはお坊さんに自分たちの作ったお米やおかず、果物などを渡す。日本では見られない不思議な光景だ。托鉢は地域のつながりがあって、それがとても重要だと思った。文化や人とのつながりを大切にしお互いを思いやる心がタイではあたりまえのようにあってすばらしいと思った。タイはほほえみの国と呼ばれているが、その笑顔はこの心の豊さからきているものだと感じた。
 陸前高田は津波被害にあい、多くの人たちが仮設住宅で暮らしている。私は被災前より高齢者の孤独死や自殺をする人が増えているというニュースをよく耳にする。津波で家族が亡くなったり、家が全壊したとか、失業したなど自殺の理由は様々だと思う。では孤独死はどうなのか。私は今まで住んでいた地域での交流がこの震災で仮設住宅に住むということで、失われたことが背景にあると考える。周りは知らない人ばかりで、前のようにおしゃべりをする人がいない、結果家にずっとひきこもるなどの状態が続き、孤独死という結果を招いているのではないか。このことを考えると、私はタイでの生活で感じた人とのつながりがとても大切なことに気づいた。他人を思いやることが被災地には重要なことだと思う。この問題を改善するために、集会所に集まり、お茶を飲んでおしゃべりをしたり、体操したりと仮設住宅の人たちが交流を行う場面が増えている。実際に私の祖父も津波で祖母が亡くなって一人で仮設住宅で暮らしているが、そのような交流に時間があるときは参加しているようだ。それに近所の方から夕飯のおかずをいただいたり、そのお返しをしたりというものをよく見られるようになった。私はこのような交流がもっと広がって欲しいと思う。
 今回の震災を通して「福祉」というのがいかに大切かということを学んだ。私はやはり地域の交流というところに重点をおいて社会福祉の勉強をしたいと思っている。大学に進学することができたら、被災地の復興に福祉がどのような場面で貢献できるかということを学びたい。そして社会福祉士になることができたら、仮設住宅の高齢者の交流会などを増やしたり、仮設を訪問して悩みがあれば相談にのったりする活動に参加していきたいと考えている。いずれは仮設住宅から公営住宅に移り住むと思うが、そうなってもこのような活動を続けていけたらと思う。被災地だけではなく、他の自然災害で影響を受けたりした地域でもこのような活動がしたいと思っている。住む環境が変わると、とまどいや不安を感じる人がほとんどだと思うが、その不安を取り除いてあげられる
存在になりたい。私は自身の経験を生かし、被災地の人の一番近くで寄り添って支えて、人と人との交流をつなげる役割をしたいと考えている。

 

陸前高田市の高校生Kさん

  私は、東北学院大学文化部英文学科に入学したいと考えています。6月下旬に行われたオープンキャンパスに参加させていた頂き、英文学科教員養成コースの模範授業を受けさせていただきました。その授業をされた村野井仁先生の「競争ではなく共生させるための英語」という項目を聞き、私も受験で勝つためのツールとしての英語ではなく、共に生きるためのツールとしての英語を教えられるような教師になりたいと思いました。進学先は、国公立大学も視野に入れていましたが、東北学院大学は、仙台市内にあるということもあり、他県からたくさんの学生が入学してきます。私の住んでいる岩手県
陸前高田市は人口が少なく、過疎化が進んでいる街なので、保育所から高校まで友達や顔見知りがそのままのメンバーで進級、進学するとういことがあまりにも多すぎて、真新しい環境で勉強することがありませんでした。東北学院大学のような大規模校に入ることができたなら、よりいろいろな考え方や価値観を持ったたくさんの仲間たちと切磋琢磨し合いながら、より質の高い学習ができると考えています。さらに、四年制大学なので自分のペースでゆっくりじっくり勉強することができます。私は今年の3月下旬から4月下旬にかけての2週間、アメリカ・ニューヨークでのホームステイプロジェクトに参加し、東日本大震災についてのプレゼンテーションとスピーチをしてきたり、日米高校生サミットに出席し、同年代のアメリカ人と復興について意見交換をしたり、学習だけでなく、異文化交流にも積極的に取り組んできたので、大学に入ってもマイペースに勉強するなか、しっかりと意義を見い出して自ら進んで学習することができる自信があります。ですが、私立の四年制大学なので学費が高額であり、東日本大震災により両親ともに失職し、父親が病死し、片親である私の家庭では払うことが困難であると判断したため、こちらの支援事業に応募させていただきました。
 進学先では」、自身の英語力を向上させるとともに、教育学も学びたいと思っています。「受験戦争」という言葉が注目される時代で、英語を「戦うためのツール」として学ぶ学生や社会人が多いですが、本当の目的はそのようなことではないと思っています。一個人としての視野を広げたり、世界が直面している問題を地球に住む一人の人間として解決に貢献したり、他国の文化を理解し友好を深め国際平和に繋げることであったり、人により目的は違いますが、決して「戦うツール」ではありません。共に生き、分かり合うための大切な第一歩が、世界共通言語、つまり英語だと思います。その大切な第一歩を教える立場になるために、英検やTOEIC、TOFELなどの資格取得や4年次の教育実習に力を入れたいと思っています。英検は準1級以上、TOEICは900点以上を目指します。教育実習は4年次しかないので、小学校外国語ボランティアに参加したり、学習塾でアルバイトしてみたりして、経験を積みたいと思っています。また、教育教員免許状の高等学校英語1種を取得するためにはこのノルマをクリアしなければならないので、懸命に努力したいと思っています。
 そして大学卒業後は、わたしの母校である岩手県立高田高等学校で教員をしたいと考えています。私は今年の7月中旬に開催された日米高校生サミットに出席させていただきました。そこで同年代のアメリカ人と、「復興について、日米共同でできることは何か」というテーマが出され、意見交換をしました。米国の高校生は積極的で、フェイスブックで情報を共有する、ホームステイの機会を多くする、震災遺構を観光資源にする、など興味深い意見がたくさん出ました。私は「陸前高田市民が外国人に対してオープンになり、招きやすくすること」だと思いました。復興だと一概に行っても、陸前高田市民だけではどうしようもないことです。誰かの力を借りなければ達成しえないことだと思っています。そこで、外国人の想像豊かなアイディアや助言を取り入れることはとても効果的であると考えました。そこで一番の問題点となるのが、やはり語学力とコミュニケーション能力です。言葉が通じなければ思いは伝わりません。私がもし高田高校の英語教員になれたら、高校生に外国人と交流させる場をもっと増やしたいです。例えば、ホームステイプロジェクトを企画したり、skypeで外国人と会話をさせてみたり、また小学校外国語ボランティアの教師を高校生にやらせてみたりするのもいいと思います。
 本来の高田の風習や伝統、文化を意地しつつ、海外に対してオープンな高田を作りたいです。自分が海外と高田を繋ぐ架け橋となり、また自分たちの後の世代の復興を担う子どもたちを教育し、復興に貢献できるような人材になりたいと思っています。

 

陸前高田市の高校生Kさん

  私は、将来環境や自然に携わる職業に就きたいと思っています。私は子どもの時から海や田んぼなどで良く遊び、自然とふれあうことが大好きで自然の生態系や問題について興味を持っていました。大学は農学部や生物資源学部などに進学したいと思っています。進学先では環境保全学、野生動物管理学、環境共生社会学などを学んで、たくさんの資格や技術を取得していきたいです。
 2011年3月11日に起こった未曾有の大震災は、防災の役割として堤防を築きあげていたにもかかわらず、気仙の町を数十分のうちに壊滅させてしまいました。目の前に残された光景は圧倒的な破壊されたもので、この震災は気仙に大きな傷跡を残しました。気仙の人々は復興を目指し、再建の日々が始まっています。しかし震災の被害を受けたのは人々だけではありません。自然環境や生態系、動植物の生息地や生活にも大きな影響を及ぼして自然の豊かさが失われてしまいました。そこには多くの問題があります。
 1つ目は変形された地形と塩害や油の流出などのよる被害です。震災の津波によって生き物の棲み処が破壊されてさらに地形が変形して生息地はひどく減少してしまいました。実際に親戚のおじさんの田んぼで瓦礫の片付けをしていた時にコイやフナの死骸を見ました。たとえば、絶滅危惧種の虫などの生息地の砂浜や松原の消失、海と繋がってしまった水田や池もあります。(このように様々な場所に影響が出ました。)塩水が引いたあとでも、塩分が残り続けて、池や湿地の塩分濃度が高く魚類の死骸や卵の死骸であふれ、植物も塩分によって枯れ始めて、油出により有害な物質が流れ出して長期にわたって問題が続いています。実際に私も水田などに油の成分が残っていたのを見たり、塩の臭いがひどくとても臭かったのを覚えています。雨などにより塩分や油が流され徐々に塩分濃度が低くなっていますが、まだ深刻な問題です。
 二つ目は土地利用、土木事業による自然環境の破壊です。震災による被害だけではありません。現代は人間が豊かさを求めて新しい構造物建築開発により生き物達の生息地が奪われ生物の多様性が低下していく現状があります。さらに、外来種生物の流入によりもともと棲みついていた在来種が減少していき、ますます生物の多様性が低下していく一方です。生物に対する津波の影響が、かつてない規模になったのも人間の土地開発により既に生態系はが崩れていたからだと思います。
 復興は、気仙に豊かさが戻っていくことだと思います。震災や人間による土地開発により人間の心から昔のような懐かしさを感じる自然の風景が消えつつあります。私は、人間と生き物達が共存できるような社会を作り上げていって、自然が豊になっていくことで気仙の本当の復興を実現できると思います。
 小さい頃私はよく友達と水田で生き物を捕まえたりして自然とのふれあいを楽しんでいました。それは今も私のいい思い出です。父親から聞きましたが、私の地元には昔はメダカ、フナ、ゲンゴロウなどの水中昆虫が棲んでいて親の世代はそれらの生き物を見ていたそうです。私はかつての生き物達や日本のもともとの自然風景の魅力を見てみたいと思いました。そしてその風景を今の子どもたちに見せて私の地元のもともとの風景を知って欲しいと思います。将来は、身近な気仙の自然環境を取り戻したいです。
 私は、震災により自宅が流出して2年ほど仮設住宅で暮らしました。その時に父親の会社が被災して半年間の失業を経験しました。今年9月の中頃に自宅を再建したばかりで経済的に苦しい状況です。大学ではたくさんの技術や専門のことを学びたいのでよろしくお願いします。

 

宮古市の高校生Nさん

 私は、将来保育士を目指したいので、短期大学へ進学したいと考えています。私が保育士を目指したいと思ったきっかけは、ニュースで児童をとりまく様々な問題を知ったからです。
 待機児童、幼児虐待、ネグレクト、少子化など、問題が増えてきています。東日本大震災の後、特に深刻化したのは待機児童です。地震、津波、原発の被害を受けた東北では、保育施設の数が大きく減少しました。またそれ以外にも、低賃金・重労働により、身体や精神が耐えられなくなった若い保育士が減少し、保育の従業者も不足しています。この二つの問題が重なり、待機児童の増加という大きな問題に発展してしまっています。この状況を知り、今まで就職しようとしていた私は、保育系の短期大学に進学することを決めました。
 私が志望している仙台青葉学院短期大学は基礎知識を身につけるためのカリキュラムが豊富です。社会の一員として必要な知識から、保育に関する専門的な知識まで、幅広い学習をすることができます。また、姉妹法人で設立の保育所があり、そこでの保育実習やボランティア活動が多いです。私は四年生の大学へ行くのではなく、そこに匹敵する短期大学へ進学することで、少しでも早く現場で活躍したいと思っています。青葉学院が重視しているように、私自身も実習・保育ボランティアは必要だと考えているので
に高校二年生から地域での保育体験ボランティアに積極的に参加してきました。そこで
実際に活躍する保育士を見て、コミュニケーションの大切さを感じました。特に保護者と上手くコミュニケーションをとることで、幼児虐待の問題も改善されていくのではないかと考えます。理由としては、保護者の不安な気持ちや子育てのストレスで虐待に及ぶ場合が多いと思います。そのような人たちをコミュニケーションをとることにより悩みを丁寧に聞き、応えることが大切だと考えます。
 宮古商業高校では、宮商デパートという模擬株式会社を毎年行っており、社会で働く上でのマナーやコミュニケーション能力を身につけてきたので、私の強みになっています。その他に、小学二年生の頃にピアノを習っていた経験があり、楽譜を読むことができます。また、従兄弟と年が離れていて、遊んであげる機会も多かったので、今では子供が大好きです。さらには、部活はバスケットボール部に所属し、宮商祭実行委員に立候補し、それぞれ三年間やりぬくことができたので、途中で辞めることなく仕事していけると思います。これら全てのことを生かせるのは、やはり保育士だと思います。私は仙台で保育士になった後、県内に戻ってきたいと考えています。今までお世話になった
岩手の地で保育士をし、地域の方々へ恩返しをするとともに、子供の成長と幸せに貢献し、深刻化した問題の改善に努めたいと思います。

 

陸前高田市の高校生Kさん

  私は現在、母と二人で暮らしています。父は私が小学校四年生のときに亡くなり、その後は兄弟3人を母が一人で育ててきました。父は自営の会社を経営していたので、会社は母が引き継ぎ、私たちを育てていってくれました。祖父から始めた会社でずっと父が守ってきた大切な会社です。経験もなく突然始めるのは大変だったと思いますが周りの人に支えられながら以前と同じように営業できるようになりました。
 母は忙しい中、毎年高田の七夕に連れて行ってくれました。高田の七夕は動く七夕として有名で、高田の隣町の気仙町ではけんか七夕としてたくさんの人たちに愛されています。私も一緒に綱を引っ張ったり、たくさんのきれいな山車を見て過ごしてきました。いつもとは違う商店街の感じや、いつもよりかっこいい町の人たち、笑顔の人たちが私の心の中にずっと残っていました。母も七夕のときは忙しさを忘れてきれいでかっこいい七夕を一緒に楽しみました。七夕は私たちにとっても一年に一度楽しみにしているものでした。
 そして東日本大震災が起き、陸前高田市は壊滅的な被害を受けました。母や従業員たちは助かりましたが、父や母がずっと守ってきた会社はすべて流されてしまいました。
 まだ震災の混乱が続く中、私は地元の高校に入学しました。会社はまだどうにもならなくて大変だったときも、私が部活動に入りたいというと、母は何も言わずに賛成してくれました。本当はお金もかかるし、余計忙しくなると分かっているのに母は応援してくれました。
 高校2年生になり進路について考え始めたとき、私は震災後初めて母と一緒に高田の
七夕を見に行きました。昔のような商店街や町の灯りは無かったけれど、震災前以上にたくさんの人たちの様々な思いが伝わってきたように思いました。七夕は長い間大切にされてきた高田の文化です。その山車も震災によって流されてしまったものもありますが、また七夕をやりたいという高田の人の願いから、震災前と同じような様々な飾りをつけた山車がまた作られました。私はその以前と変わらないきれいな七夕に感動し、震災によって流され、何も無くなった高田の町に残る文化と伝統に興味をもつようになりました。そして大学に進学して高田のような素晴らしい文化について学びたいと思いました。
 震災から二年経って、道路整備やがれきの撤去も大切なことだけれど、一番大切なものはこの町を守りたいと思う気持ちだと思います。その気持ちを支えるのが地元を誇りに思えるような文化と伝統です。陸前高田にはその文化と伝統もあり、復興に向けてとても大切なものになってくると思います。
 私は大学で、文化学を学びたいと思っています。文化学は地域に密着してその地域を研究したり比較研究したりできるところです。高田の七夕のように、全国や世界中には
たくさんのお祭りがあります。それはそれぞれの地域に密着しているもので、高田のように人の気持ちを支えるものだと思います。私は人々が込めた気持ちや、伝承についても調べてみたいと思いました。そして、文化学で陸前高田をもっと専門的に、客観的に詳しく説明できる力をつけたいです。大学で学んだことをたくさんの人たちに発信することで、復興させたい、伝統を守っていきたいと思う気持ちを多くの人に持ってもらいたいです。将来は交通の面だけでなく、津波で流されたお寺や無くなってしまったお祭りなど、精神面で人々を支えていたものを調べて復活させていきたいと思っています。高田の町に戻り、人々の心を豊かにしてきた高田の文化や伝統を、以前と同じように取り戻して行きたいです。
 この気持ちを母に伝え、大学に行きたいと言ったときも、母は反対をせず、私を応援してくれました。会社は再開しましたが、場所は変わり、まったく以前と同じようにできているとは思えません。私が大学に行きたいと思うことで学費もかかるし、母にはもっと迷惑をかけてしまいます。でもその分大学でたくさんのことを吸収し、応援してくれる母に、そして陸前高田に必ず恩返しがしたいです。

 

陸前高田市の高校生Kさん

  将来、私は理学療法士になりたいと考えているので、四年生大学への進学を希望しています。
 私が理学療法士を目指している理由は幼いころの体験です。幼稚園のときに父が病気になりました。それではじめて理学療法という治療法を知り、理学療法士の方に出会いました。父がその治療を受けると少し回復して動くことができるようになりとてもうれしかったという思いがあります。父は亡くなりましたが、リハビリも運動機能の回復、生活の向上の中での重要な物理的治療法なのだと感じました。このことがきっかけで、私は人を助ける仕事に就きたいと思い、理学療法士を目指しています。理学療法はこれからの社会問題でもある高齢社会に必要です。私の住んでいる仮設住宅にも高齢の方がたくさんいらっしゃいます。どうしても年を重ねると足や腰が弱って来る方が多いです。その中でもリハビリは運動機能を維持するために大切なことです。最近では老人ホームや訪問リハビリなど理学療法士の活躍の場が増えてきてより多くの人に関わることが
できるようになりました。住み慣れた街で自分らしく暮らしたいという高齢者の方々の願いも叶えていくためにもリハビリは大切だと思います。先日は、実際に病院のリハビリの施設を見学してきました。理学療法士においての大切なことや詳しい活躍の場、設備などの話を聞いたり、まるでジムにあるような機会や歩行器などを見たり、より近くで勉強することができ、よりいっそうなりたいという思いが強まりました。
 私は、このたびの東日本大震災を受けて地域の医療に対する意識が変わりました。震災の前はそんなに地域の医療に関してあまり興味をいだきませんでした。いつものように病院があり、そこで医療関係者が働いているのがあたりまえのことでした。しかし、誰もが予想していなかった震災が起こりました。私の中で病院は安全な場所であると思っていましたが、甚大な被害をうけました。私はそのときの医師たちの様子がかかれた一冊の本に出会いました。「救命-東日本大震災、医師たちの奮闘-」という本です。そこには医師たちの震災にあってからの対応の様子が書いてあり、私の知らない実態を知ることができました。私の住んでいる陸前高田市の高田病院は建物自体が津波の被害にあい、大変な状況になりました。今は仮設の病院でなんとかなっていますが、被災当時は病院もない状態でした。他の地方や国からたくさんの支援チームが来て医療活動をしたことを知りました。その人たちが当時活動してくれたからこそ今の高田病院が成り立っていると思うのですごく感謝しています。私はこのような震災をうけた中でもっと地域に関わりを持ちたいと思い、自分たちの地域の医療の手助けをしたいと思うようになりました。
 私が理学療法士になったならば、地域の施設や病院で地域の人たちのために働きたいと思っています。これからの被災地を担っていくのは私たち若い世代の役割であると思います。自分が復興の力になる人として活躍できればと思っています。私はこの地域に住んでいて人の温かみや威勢の良い祭りや行事などで町の活気を感じてきました。たくさんの人たちに声をかけてもらったり、町のことを教えてくれたりしてその人たちに恩返しをするためにも自分の目指している技術を取得してその力を発揮して行きたいです。そのためには進学して理学療法士になるための知識や技術を身につける必要があります。現在、志望している群馬大学は私に必要なカリキュラムがそろっており、実習設備や実習先も充実しています。国家試験の合格率がとても高いです。過去三年で九十パーセントを越えていて、国家試験にまで対応する学習がなされているのだと思います。大学での勉強や実習を通して知識と技術を身につけ、国家試験で合格をします。仕事を責任を持ってやり患者さん一人一人のことを考えて支えていけるような理学療法士を目指して頑張ります。
 しかし、大学へ進学するにはそれなりにお金がかかります。私は自身も東日本大震災で住んでいた家が所が全壊し、それまでの生活が一変しました。今は仮設住宅でなんとか住んでいますが、いつまでもいられるわけではないし、十分な暮らしができているとも言えません。それまで使っていた生活用品を買いそろえなくてはならなくなったため、支出が著しく増加しました。私の家は今、母の収入で生活費を賄っていますが、そんなに多いとはいえない金額で家計を支えているという状況にあります。私の志望している大学は家からは通えない距離にあるため、寮や一人暮らしをしなくてはならず、生活費も別途でかかります。このような問題に悩んでいたところでこの奨学金の話を聞きました。私は大学での生活を頑張っていくためにも、ぜひこの奨学金の力をかりたいと思い、希望しました。

 

宮古市の高校生Hさん

 私は将来、東日本大震災で被災した地元の復興に貢献できる人材になりたいと考えている。そのための知識や経験を積むために四年制大学への進学への進学を希望をしている。
 震災や震災後のボランティア活動を通し、地域コミュニティの希薄化を実感してきた。震災の時に津波の犠牲となった人の中には、地域の中でのつながりが薄いために声掛けなどができず、どこへ逃げたらいいのかわからなかったり、家に残ったままだったりした人たちがいた。震災後も津波による被災で仮設住宅へと移り住んだ人たちは、元のコミュニティが崩壊したことで人とのつながりが希薄化しているという生の声を聞いた。私はこれらを被災地の問題であると捉え、解決していくべきだと強く感じた。故に将来は地元にコミュニティの再構築を目的としたNPOを立ち上げ、地域コミュニティを活性化させ復興に貢献していきたい。人と人とのつながりをより確かなものにすることで、高齢者の孤立死や災害時に孤立して困ることのないまちづくりを展開していきたいと考えている。
 夢を実現させるために、コミュニティや地域について幅広い知識を身に着けることと経験を積むことが大切だと考え、大学へ進学して深く学ぶことを希望している。大学に進学したら実践的なゼミ活動で地域に出て活動することが多くなる。実際に過疎化が問題となっている地域を訪問したり、そこに暮らす人々と交流したりすることで実体験を重視した学びを得ることができる。具体的には地域における行政のしくみや産業の果たす役割などを学び、地域政策の基礎を学びたい。又、商業高校での学びを経営経済の面からより深く学びたいと考えている。そして私が最も重要視する学びはフィールドワークから得る地域コミュニティについてである。なぜ地域コミュニティが必要なのか、実際に地域と関わり、人々と触れ合うことで考えを深めていきたいと強く願っている。
 私が岩手県ではなく県外への進学を希望した理由は、一度故郷を離れ、別の視点で被災地を見つめなおしたいと考えたからだ。高校三年間、復興支援活動に積極的に取り組んできたが、二年生の春休みに全国の高校生と震災復興のまちづくりについて話し合う機会があった。その際、被災地外で暮らす高校生から被災地の現状を知りたいが情報を得ることが難しく関心が薄くなっているという話を聞き「外から見た被災地」という視点が存在することを知った。しかし、私はこれについて全くの無知であり、復興に携わる人間として必要な視点だと強く感じた。復興に役立つ人材とは実際に現場に立ち、問題の背景を多方面から捉え、知識を人々と共有し、復興につなげる事のできる人間であると考える。そのために、県外から故郷を客観的に見ることが学生時代にこそ必要だと考えるに至った。
 復興支援活動をしているとやはり復興に向けて動く若い世代が少ないといつも感じる。ボランティア活動でも、町で行われるイベントでも、若い世代よりむしろ高年層が動いている。私は将来の地域を担う若い世代はもっと地域と密接に関わり、自ら動いていくべきだと考えている。今の若者には当事者意識が足りないとよく言われる。確かに今の現状を見ていればそう捉えるのも仕方がないことかもしれない。しかし一概にそうとは言い切れないのではないだろうか。若い世代と言われると、一般的に高校生から三十代くらいの年齢層がイメージされる。この世代にまちのために動いていくべきだと言っても、高校生は学校生活や勉強でなかなか地域のことを意識しづらい。三十代までの大人は自分の仕事が生活の中心であり、まちのために何かをしようと思っても、行動に移せない場合が多い。この問題の原点は、きっかけがないことにある。震災直後、復旧の中心は若い世代だった。しかし、ニーズの変化により、若い世代が地域に関わることが少なくなった。震災をきっかけとして、若い世代が力を発揮したことは事実であり、今もその力を秘めていると確信している。だから若い世代が活躍するためには、学校生活や仕事で忙しい若い世代に参加してもらえるような活動を提案し、発信していくべきである。活動の中で人とのつながりや地域との関わりが増えれば、若い世代中心のまちづくりが実現するのだと考える。私は地元に戻り、そういったことにも力を入れていきたい。
 私は進学先で地域ついて幅広く学び、復興に役立てるような知識・経験を積んで必ず地元に帰ってくる。そして復興の最前線として復興に貢献していきたい。

 

大船渡市の高校生 I さん

  私には夢がある。それは自分自身も復興活動に関わりながら、私が教師となり復興に
必要な人材を育成していくことである。今被災地では全国各地から支援していただいていることもあって効率よく復興が進んでいる。しかしながらあと数年、数十年したら今支援で来ている復興活動している全国各地の方々は地元に帰ってしまうはずである。私はそこから先が復興の道のりの山場であると考える。復興に必要な人材とは明るく元気があり、積極的な行動ができるような人間であると考える。そのような人材育成に励んでいきたいと考える。
 私が教師になりたい理由はもう一つある。それは私が中学生であったときの担任の先生の影響である。先生は親身になって話を聞いてくれたり、たくさん役に立つアドバイスを言ってくれたりと優しさを備えつつ時には厳しさがあるとても頼りになる存在であった。私が生徒会長のときには、行事などの準備でうまくいかないときに、忙しい中でも私たちのところへ足を運び意見をしてくれたり、一緒になって夜遅くまで手伝ってくれたのだ。私はこのように他人のことにも親身になって生徒に尽くすことができる力をこれからの人生で伸ばしていき、復興に必要な人材育成をしていきたい。
 だからこそ私は岩手大学教育学部学校教育課程に進学する必要がある。生徒とのコミュニケーションを図る能力を向上させ、学校教育現場の課題に対応できる指導力を身につける。また、社会問題としていじめや体罰、不登校に学校崩壊とたくさんある問題に対応する力、解決する力などの実践的能力の習得も目指したい。
 私が岩手大学を志望している理由の一つとして岩手県内にあるということがある。私は復興活動に参加したい。岩手大学には早期復旧と復興支援を推進するために岩手大学三陸復興推進機構がある。私も教育支援部門の学習支援班として被災地の小学生、中学生の学習サポートをしていきたい。
 大学生になったらボランティアとして被災地に携わりながら自分自身も成長し、数学の中学校教諭一種免許状を取得するのを第一に勉学に励んでいきたい。また大好きな野球を続けて、教師として被災地に戻ったときには野球を通して元気で明るい生徒を育成できるようにしたい。私は野球からたくさんのことを学んだ。最後まで決して諦めない粘り強さ、仲間の大切さ、そして元気にはつらつと楽しくプレーをする大切さ。自分を成長させてくれた野球に恩返しするためにも、自分はプレーをし続けたい。自分のレベルを上げて私が野球から教えてもらったことを次世代にも繋げていきたいのだ。
 東日本大震災の日、私は実際に津波を目撃した。住み慣れた町に押し寄せる大きな波。もくもくと上がる土煙。ガタガタと大きな音をたてながら流されていく家。見たこともないスピードで自分に近づいて来る真っ黒で大きな壁。波が引いた後は見るも無惨な風景が私の目に飛び込んできた。あの風景は一生忘れることができないだろう。そして私は学んだ。いつもは平然として私たちに海の幸を与えてくれる海も、時には牙をむくものであることを。そしてその一変した波は想像できない威力、スピードで陸地に押し寄せ、なんでもさらっていくことを。これは実際に経験した人間だからこそ分かることである。だからこそ。私には次世代に伝えていく責任があるのだ。仮にもう一度大震災が発生したとしても、一人の犠牲者も出さないために、私と同じ体験をさせないために。この責任を果たすために経験を生かし、一秒一瞬の大切さなどを指導していきたい。
 あれから3年。順調に復興が進んでいるが、これからが正念場となっていくだろう。私も、この町に生まれた人間として復興に携わりながら、この町を震災前よりも素晴らしい町へとしていきたい。教師となり被災地の発展と共に一生を過ごしたい。そのために岩手大学に進学したいのである。

 

宮古市の高校生Kさん

 私には大きな夢があります。それは、将来私の故郷である宮古市で地方公務員になって、地方政治に直接関わり、震災を受けた宮古市の復興に尽力することと、また震災以前の宮古市よりもより活気付いた町にできるよう努めることです。私がこの夢であり、目標である宮古市復興に尽力するということを心に決めたのは、決して忘れられないあの日がきっかけでした。三月十一日の東日本大震災が起こった日です。私が当時住んでいた宮古市の田老地区を高台から眺めていたとき、私は自然と絶望感などの後ろ向きな考えは、頭には浮かびませんでした。むしろ、これから先どうしようか、自分は何をす
べきか、親のためには、何をすればいいかなど、すでに未来のことが頭に浮かんでいました。その時は中学生だったので浅はかな考えしか浮かびませんでしたが、最終目標は今持っている目標と同じです。私は、津波で失ったものも大きかったのですが得たものも大きかったのです。
 私が考えるに、地方政治をする上で大切だと思うことは、広い分野の知識を持っているということです。国の政治とは違い、地方では取り組むべき分野がたくさんあると思います。なのでどのような場、状況にあっても対応できる知識が必要になると考えます。このことを考えて私は、これまでの高校生活で、勉学、部活動、ボランティア活動に取り組んできました。取り組んできた、高校生活意見交換会で感じたことは、コミュニケーション能力が大切であるということです。宮古市内の高校生と宮古市の未来について話し合うというものでしたが、多くの高校生が自分の学校の生徒とばかり話をして他校の生徒と話をする際には萎縮しているように見えました。私は、そのような場でも自分を失わず会話ができる方なので、積極的に自分の意見を述べて他校の生徒の意見を述べるように促したりしました。中には、黙り込んでいた生徒から意見を聞いてみると、思ってもいなかったことが飛び出したりしました。ようは、大切なことは、コミュニケーション能力、自分の意見を堂々と主張できることです。どんなにすばらしい意見を持っていたとしても、その意見の持ち主がその意見を前に出すことができなければ、誰にも話に触れられないのでせっかくのすばらしい意見が無駄になってしまうのです。なので私は、いろいろな場で、どんな人とでも臆することなく会話ができるようになりたいです。
 私が志望する大学は、岩手県立大学総合政策学部総合政策学科です。貴学では、地方政治を行う上での必要な知識を養うことができます。またオープンキャンパスで見てきたことの中で心に残ったのは、地方政治の知識以外でも専門知識を広く学べるということと公務員試験対策の講義を行っているということです。もちろん地方政治の知識は、確実に学ぶべきです。しかし政治以外の知識、例えば農林水産の専門知識だって直接関係があるようには見えませんが、決して役に立たない知識ではないはずです。ましてや自然があふれる岩手県での政治です。政治の知識だけでは頼りないような気がします。
オープンキャンパスでは農学の展示があったので、私は貴学で積極的に様々な分野の知識を身につけたいと思っています。またどんなに知識を身につけても、試験に受からなければ意味がありません。なので私にとって対策をとってもらえるのは、必要なことです。選択肢の中には高校在学中に公務員試験を受験するというのもありましたが、たとえ合格したとしても実力も知識も無い状態で社会に出ても私の目標は達成できないと思います。私の目標は宮古市の復興に尽力することです。何の力も持たずに宮古市の復興に尽力できましょうか。いやできないでしょう。
 震災では、多くの人達が悲しみ、苦しみました。ですがなかには、震災の中で多くのことを学び、何かを得た人もいると思います。私もその一人です。一時は大学進学などせず卒業後、すぐに就職し、少しでも早く社会に出ようと思ったこともありましたが、
遠回りでも自分が満足できる仕事ができるように大学進学を決意しました。私は、あの日を乗り越えて実力をつけてまたここに帰ってきたいと思っています。今後の宮古市に必要となる人材になれるように日々精進していきたいです。
 

陸前高田市の高校生Kさん

  2011年の東日本大震災。思い出したくない日でもあり、決して忘れてはならない日。自分の進路について決めかねていた私ですが、大学進学への思いを強くした出来事でもあります。 
 私の両親は高田松原近くで食堂を営んでいました。朝出かけて、夜9時過ぎに帰る生活だったので、私は祖父母に面倒を見てもらいました。祖父は厳しい所もありましたが、祖母はとても優しくて怒った顔を見たことがないくらいたくさんの愛情を注いでもらいました。年の瀬が迫ったある日、祖父が脳梗塞を患ってしまったのです。手助けなしでは生活が出来なくなってしまいました。その頃の私は学校生活の忙しさや自分の幼さ
を言い訳にして、一人で介護している祖母を手伝うこともなく、ただ傍観者になっていました。これからも家族としての絆が続くものだと信じていたから。突然、避難先の市民体育館で津波にのまれて亡くなった祖母。祖母の死を感じてだんだん生への気力をなくして亡くなった祖父。予期せぬ別れに悲しみよりも後悔の思いで胸がいっぱいになりました。どんなに悔やんでも、もう祖父母に届かないこの思いを思い悩むうちに人の支えになることが自分の救いでもあり、喜びになれるのではと思うようになってきました。
 祖父が震災後お世話になっていた特別養護老人ホームに行く度に感じていたことがあります。初めて足を踏み入れた時、特別な雰囲気で緊張したのですが、職員の方々がとてもにこやかに迎え入れてくれて祖父を預かってもらっている後ろめたさが消えていきましたし、気難しくなっている祖父に優しく声掛けをし、身の回りの世話する様子を見る度に、手際がいい仕事ぶりに感心していました。それから福祉の世界に興味を持ち始めた私は、ボランティア活動を進んで行うようにしていきました。地元の老人介護施設にお手伝いする為に訪問した時は初めて介護の実践ができると思いワクワクしていましたが、いざ人を目の前にすると何を話していいのか分からず、立ちすくむ状態でとても不安になりました。私には向いていないのかなとも思ってきました。そんな気持ちのなか、施設の方に指示してもらい入所者の足湯を行いました。私の担当は九十四歳のおばあさんです。私が足を洗っている間、会話はできなかったけど、おばあさんが気持ち良いと思ってもらえたらいいとだけ思い一生懸命やらせてもらいました。ふと顔をあげたらおばあさんの顔がにこやかで、終わると私の手を握って何度もうなずいてくれたのです。体の中から温かいものが沸きあがってきました。さっきまでの不安な気持ちはすっかり無くなり、私の進むべき道を明るく照らしてくれた瞬間でした。心を込めて接すれば絶対伝わると信じて進んでゆきたいと思えました。活動が終わり帰宅する時、施設の方々から「何年後か一緒に働こうね。絶対戻っておいで」と言われ、大きくうなずく私がいました。
 陸前高田は震災後、転居等で人口が大幅に減少しています。若者の数が減って高齢者の割合が高くなっています。これからどんどん老人福祉の問題が出てくると思います。今の私はやる気という気持ちだけは持っていますが何一つ知識も経験もないので戦力になれません。この思いを達成するために進学し介護福祉士になろうと考えました。大好きな故郷の復興のために目指したい事は、老人福祉施設の充実やサービスの向上です。入所者が安心して毎日が過ごせるアットホームのような施設。一人一人の要求が違うので全部かなえるのは無理だとしても、なるべく添えるような対応がとれるサービス、状況によって臨機応変に対応できるサービス作りをしていきたいです。頭で考えるのは簡単ですが、実際はとても難しいことだと思います。でも、悩んでも何も変わらないので、今出来ることを精いっぱいやっていきたいです。今もたくさんのボランティアの方々が訪れていただいていますが、大学生の活動がとても目につきます。その若さからくる行動や、団結力は私達に元気を与えてくれるものになっています。私も専門的知識を取得するだけでなくボランティア活動、アルバイト活動、サークル活動など積極的に参加、行動し、経験を通して人の痛みがわかる、そして支えてあげられるような人になっていきたいと思います。私が成長していく事が目標達成の階段を登る一歩だと考えています。  
 食堂の店舗、自宅が流出したので両親は自宅を新築し、陸前高田の復興とともに食堂も再開したいと思っています。震災以前と比べて経済的に苦しくなっていますが、私の進学は応援してくれています。けれども少しでも親の負担を減らしたいと考えています。
 早く故郷復興の力になれるよう、感謝の気持ちを忘れず頑張っていきたいです。

 

陸前高田市の高校生Nさん

 私は北海道教育大学函館校の教育学部、人間地域科学過程、情報科学学科に進学したいと考えています。
 東日本大震災直後では、水道、ガス、食料など様々な面で苦労し被災者の不安をあおりました。しかし、最も不便に思われたのは情報が入ってこないということでした。ラジオや新聞などでかろうじて震災の状況は知ることができましたが、家族の一人である次女の行方と安否が分からず、父、母とともに不安な日々を何日も過ごしました。そしてまた私はそのように家族や友人、親戚の安否の情報が分からずに不安な日々を何人も過ごした人達を震災直後に何人も見てきました。あの時、携帯電話がつながれば、インターネットがつながればこんな気持ちにならずにいれたのにと思った人は何人いるでしょうか。手当たりしだいに避難所を歩き回ってさらに不安をつのらせることもなかったはずです。情報が入ってこないということは、私達にとって最も大きな不安要素であり、最も精神的ダメージが大きいものでした。このような実体験を踏まえて、志望している大学へ進学して情報について十分な知識を得て、今後またこのような災害が起こった時に情報をいう面で人々の不安を少しでも取り除きたいと思い進学を志望しました。
 私が進学を志望した理由はもう一つあります。それは今後東日本大震災を知らずに生まれてくる人へ東日本大震災について、震災後どのように生活したのか、どのような思いだったのか、どのようなことが一番辛く、大変だったのかをどうしても伝えたかったからです。
 私は小・中学生の頃、何度も地震・津波についての学習をしました。明治の三陸大津波やチリ地震大津波のことを体験した人達から映像を見たり、本を読んだりしながら教えられました。しかし、その当時は映像や写真といったものが発達しておらず、イメージがあやふやで、地震や津波の恐ろしさがいまいち伝わってきませんでした。しかし、その人の話し方は熱心に伝えようとする姿勢かその当時がどんなに大変だったかが分かりました。また、その頃小学生だった私はそのような状況であったということを聞かされても、そんな事が自分がいきているうちに起るはずがないと思いました。おそらくそれは私だけでなく、他にも多くの人がそう思ったことでしょう。なぜこんなにも恐ろしい出来事があったにもかかわらず、恐ろしさが分からない人が多くなっていくのか私が考えた結果、三陸大津波やチリ地震津波を経験した代の方達が下の代へとその当時の恐恐や恐ろしさを伝えきれていないからだと思いました。今となってはかつての地震や津波を経験した人達が減り、明確に当時のことを伝えるのは不可能です。しかし、東日本大震災の記憶録はまだ新しくはっきり残っています。そしてまたこれらは下の代へと明確にはっきりと伝えていかなければならないことなのです。そうすることによって地震や津波に関しての興味をもち、被害を最小限におさえられる技術が今後開発されているのではないかと思うからです。なので私は、下の代へ伝えるための第一人者となるためにも情報という観点で防災教育をするための能力を身につめたいと思いました。
 東日本大震災から二年以上が過ぎ、今現在も復興が続いています。復興するにあたっていくつか条件が出てくると私は考えました。第一に津波対策です。あれほどの恐ろしい思いをしていて対策をしないはずがありません。今のところの話では地域のかさあげなどがあげられます。そして第二に以前の町より安全かつ住みやすい町にするということです。震災前の地域では古くてもろい壁など大きな揺れで崩れてしまいそうな物が大分ありました。復興にあたりそのような危険な場所も撤去していく必要があると思います。また今後津波による避難警告がでたさい、スムーズにすばやく避難ができるような避難ルートの設置、そして誰がどんな場所に居ても避難してそこで数日間生活できるような避難所を多く設けるなどあらゆる場面に対応ができるように地域の人々が安心して生活ができるような環境を整えるべきであると考えます。地域の人々もそうあってほしいと思っているはずです。その気持ちに応えられるように大学で効率よく地域の人に伝えるため情報科学はどうあるべきかを学び、私たちの地域がより安全により住みやすくなるように復興させたいと思っています。
 私は震災により自宅と自営業の店舗が流出しました。現在は仮設住宅で暮らし、仮設店舗で営業しています。しかし、収入は震災前よりも減りました。そんな中で今も大学と専門学校に通う姉が二人いて、私の大学に進学するにあたっての費用を出すことが厳しい状況にあります。なのでどうかご支援いただきたいと思い応募しました。

 

陸前高田市の高校生Sさん


 私の家では自転車屋を経営しています。将来、家のことを手伝うために、大学で工学部に進学しようと思っています。
 私の家は、震災前は祖父が自転車屋を経営していました。しかし、震災によって店も流され、祖父母も亡くなってしまいました。私は、父が県外で仕事をしていたので、祖父母のもとで生活していました。震災により、店も無くなってしまったこの町に父が戻り、店を再開すると聞いたとき、とてもうれしく思いました。ですが、私は何もすることができません。今まで、学校や自分のことばかりしかやってこなかった私には、店の手伝いをしようとしても、何もできず邪魔にしかならないのです。私は、自分が甘やかされてきて何もできないということが、悔しくてなりません。なので、せめて今からでも、店に携わりたいと思い、工学部に入って勉強を頑張りたいと思います。私は、大学でできる限りたくさん学び、家でも父から教わって、自転車のことを勉強していきたいと思っています。
 震災の時には、各地でガソリンが不足し、交通手段が無いときに、自転車が大活躍しました。父の店でも、再開後にはたくさんの自転車が飛ぶように売れました。お客さんの多くは、祖父母を知っている方々で、自転車屋が再開してくれて良かったと、励ましや応援のメッセージをたくさん頂きました。お客さんと祖父母の思い出などをたくさん話すことができて、とても嬉しいです。
 店では、自転車に関係なくても知り合いなどが寄ってお茶を飲みながら話ができるようになっています。主に思い出話や、世間話ができるようにです。震災前の店では、祖父母に知り合いが多く、お客さんも自転車修理の間待っているなどいつもお茶を飲みながら世間話ができるようにしてありました。今の店でもたくさんのお客さんに来てもらって、たくさんの話し声でもっと賑わってほしいです。
 私は、岩手大学工学部機械システム工学科を志望しています。機械システム工学科では、社会に必要な道具の開発・設計・製造にまつわる分野として機械工学に関する基礎学力及び教養の習得、自主性、創造性の獲得、技術者としての国際性、倫理性の確立に重きを置いた教育を目指しています。私は、機械システム工学科では特に材料力学を学びたいと思っています。あらゆる「機械」はその性能を最大限に発揮するための設計に基づいて作られています。故障や事故が起きないようにするための強度設計は最も重要な設計であり、材料力学に基づいて行われなければなりません。これは、自転車にも適用されます。この分野を勉強するにあたり、できる限り自転車に関連付けて授業をうけたいと思います。そして自分で自転車の設計を出来るようになりたいです。
 私の夢は、いつか自分で自転車を設計して父の店で取り扱ってもらい、陸前高田発の自転車としてブランド化することです。自分で設計した自転車を父に組み立ててもらい、たくさんの人に乗ってもらいたいです。私は大学でできる限りのことを尽くして、自転車に関することを学び高田の町に貢献したいと思っています。
 私の住む陸前高田市では、平成17年までの20年間、三陸サイクルロードレースという自転車の大会が開催されていました。レースには、日本中からたくさんの参加者が集まり、毎年夏になるととても賑わいました。祖父母も最初の開催から20年間、このレースに出続け、シルバーの部で何度か優勝するほどでした。去年の9月に、震災前に高田でこのレースがあったことをうけて、ツール・ド・三陸が開催されました。この大会では、父はレースには参加せず、サポート役として大会を支えていました。高田で唯一の自転車屋なので、父の仕事は大変だったと思います。陸前高田でのレースは、これから先何年も続いていくことでしょう。10年後のツール・ド・三陸では、私が設計し父が整備した自転車でたくさんの人に出場してもらえたらいいなと思っています。そして、100年先までツール・ド・三陸が続いてほしいと思います。私もたくさん勉強して早く大人になって、父に一人前と認められるようになりたいです。そして店を継いで、これから先何十年も高田の町を盛り上げていきたいです。また、ツール・ド・三陸以外のことでも陸前高田を盛り上げていければいいなと思っています。この町で他に何ができるかはまだよくわかりませんが、いろんなことに挑戦して盛り上げていきたいです。父と二人で、この高田の町に震災前のあのレースの活気を取り戻し、一刻も早く復興が進むように頑張っていきたいです。